三国志 〜生と死と心〜

原作 羅貫中『三国志演義』 作・絵 彩ますみ

     【27】 董海の懺悔

董海は、全速力で逃げ出していたが、張飛が気付くのが早く、追いかけてきた。

「待ちやがれ! このヤロー!!」
「……!」
董海は、出せる力を全て出して必死に逃げたが、その後ろから張飛が、まるで弾丸のような速さで追いかけてきて、距離をどんどん縮めていく。

とうとう、張飛は、董海の腕を掴んだ。
「もう逃げらんねーぞっ!」
「痛いっ、痛いよ!」
「黙れっ!!」
「離せっ、離せよ!!」
「大人しくしろ!!」
董海は、必死で抵抗しているが、張飛は容赦なく、彼の腕を締め上げた。
「ぎゃあっ!!」
「てめえかっ、董海ってヤローは!!」
「だ。誰なんだっ、お前は……」
「張飛ってんだよ、ふん!!」
張飛は、不機嫌そうに鼻息を鳴らす。

「てめー! よくも兄貴を苦しめやがったな!!」
張飛は、ものすごい剣幕で董海の胸倉を掴んだ。
「やっ……やめてくれっ!!」
「俺は、お前みてーな、イジイジして他のやつを羨ましがってるやつなんか大っ嫌いだ!! 覚悟しやがれ!!」

ところが、そんな張飛を、後を追ってきた関羽が必死に制止した。
「やめんか、張飛っ!!」
「あ……兄貴っ!?」
「!!」
関羽の姿に、張飛と董海は瞳を見開いた。
特に、董海の方は立ちすくみ、顔が青ざめ凍りついていた。
関羽を目の前にして、今度こそ逃げられないと悟ったのだった。

「やめるのだ、張飛!!」
「けど、関羽兄貴っ!! こいつなんだろ? 兄貴に焼き餅やいて殺そうとしたやつは!! 俺は、関羽兄貴を苦しめるやつは、ぜってー許せねえ!!」
しかし、関羽は、首を振って言った。
「もうよい、張飛……。お前のその気持ちだけで十分だ……。わしにも落ち度はあった。わしは、董海の心に気付けなかった。咎めはせぬ……」
「はあ!?」
正義感の非常に強い張飛は、納得できなかった。
「兄貴!! なんでそんなに甘いんだよ?」
「董海を咎めたところで、呂澄は戻っては来ぬ。確かに、董海には、言いたいことがあるが……」

そんな関羽と張飛の様子を凝視していた董海は、唇をぎゅっとかみ締めた。
そして、董海は、関羽に頭を下げた。
「申し訳なかった! 関羽っ!!」
関羽と張飛は、一斉に董海に注目した。

董海は、引き続き、関羽に深々と謝罪した。
「関羽……! お前に一言、どうしても謝りたかった。本当にとんでもないことをしてしまった。済まない!!」
「……」

関羽は、董海を真っ直ぐと見て、ずっと聞きたかったことを尋ねた。
「董海。お主、呂澄を誤って殺めたことを、どのように思うておる? 本来は、このわしを殺めたかったのであろう?」
「そ……それは……」
董海は、関羽に言う言葉が見つからない。

「お主に憎まれておったのは、非常に辛く心苦しいことだが、その事実は我が心に重く受け止めねばなるまい。お主をそこまで追い詰めたのは、他ならぬこのわしだ……」
「俺……っ……。あの時の俺は、どうかしてたんだ……!」
「どーかしてたで済むと思ってんのか!? てめー!! てめーのつまんねー心で、死ぬはずのなかった呂澄ってやつが、死んじまったんだろーがっ!!」
「張飛っ!! やめんかっ!!」
張飛は、董海を激しく責め立てたので、関羽は制止した。
「わりい、関羽兄貴。けど俺、こいつ許せねー……! 兄貴を苦しめたやろーなんだろ?」
「もうよい」
「けど!」
「もうよいのだ、張飛。お前がそう思ってくれるだけで、わしはもう、十分なのだ」
「兄貴……!」

「許されるとは!! ……思ってない……!」
「!」
その時、ずっと動揺していた董海が、初めて叫んだ。
「関羽を殺そうとした罪、呂澄を殺してしまった罪は。許されるなんて思ってない。俺はこの先もずっと、一生償わなきゃならない。だからこの場で償わせてくれ!」
そう言って、董海は腰に挿していた剣を抜き、自分に向けた。

それを見た関羽は、ハッとして止めた。
「董海っ!」
「俺が死ねば、償いになる! 関羽も呂澄も、それを望んでいるんだ!!」
「違う! そのようなことを、望んでなどおらぬ!!」
関羽は、そう叫んで、董海の剣を素早く取った。
「ああっ!」
「董海……お主、わしや呂澄が……そのようなことを、望んでおると思うか……?」
「……!」
剣を関羽に奪われてしまった董海は、その場に崩れ落ちた。

「……じゃあ……どーすれば……どーすれば。関羽や呂澄に……償えるんだ……っ。一体……俺は……どうすれば……」
董海は、自分の罪深さに絶望して、涙をこぼし、がたがた震えている。

そんな様子の董海を見下ろした関羽は、悟ったのだった。
きっと、あの後、董海は後悔していて、自分を責め続けていたのだろう。
毎日笑うことなく、心が死んだまま生きてきたのかもしれない、と……。

それを知った関羽は、今までの苦しみが、少し違うものになったような気がした。
苦しみは消えはしないのだが、少し晴れた気もしていたのだった。
被害者が苦しむのはもちろんだが、加害者も同様に苦しむのだと……。
関羽は、今まで胸に引っかかっていた何かが、晴れ渡ったような気もしたのだった。

関羽は、しゃがみ込んで、董海を優しく覗き込んだ。
「董海……。生きるのだぞ」
「生きる……?」
「そうだ、生きるのだ。これからも生きて、呂澄の霊に償い、罪滅ぼしをして欲しい」
「なんでだよ……?」

張飛は、とても納得できなかった。
怒りのあまり、張飛は、董海を指差して、関羽に叫ぶ。
「なんで、呂澄ってやつが死んじまって、こいつが生きるんだ!?」
「董海には、簡単に命を投げ出して欲しくはない!」
「えっ?」
「命を奪ったからこそ、その命を簡単に投げ出して欲しくはないのだ」
そこには、関羽の深い思いがあった。
「わしとて、董海を恨みに思ったことはあった……」
関羽は、これまでの苦しみを思い出し、静かに瞳を閉じたが、やがて強い瞳を見開き、その強い瞳を、ただ真っ直ぐ、董海に向けた。
「しかし、憎しみや恨みは、心に何も残しはせぬ。それどころか、虚しさや悲しさしか、残さぬもの。わしはそれがよくわかった」
「関羽……」
董海は、少し震えて、関羽を見上げた。
そこには、以前と変わらぬ、関羽の海容的な優しさに満ち溢れた顔がある。

「さあ。行くがよい、董海」
「関羽……っ……」
董海は、ぼろぼろ涙をこぼしていた。
「呂澄はもう戻らぬが、お主が生きておったのは、何よりであった。だが、死ぬのも覚悟がいるが、生きることの方こそ、何より大変なものぞ。だからこそわしは、これからも……、董海には生きて欲しい。それこそが、最大の償いになると……わしは信じておる」
「うう〜……」
董海は泣き崩れた。
「董海。今度もし再び会うことがあれば、その時は笑って語り合おうではないか。では、道中無事でな……。さらばだ」

董海の、頼りない猫背の背中を見届ける関羽と、張飛であったが、やはり張飛はまだ納得できていない様子であった。
「なあ、兄貴。ホントにこれでいーのかよ……?」
「良いのだ、張飛……」
「う〜ん……」
張飛は頭を掻いていた。

「張飛。お前は本当に、心の優しいやつだ」
「えっ?」
「わしのことを、まるで己のことのように心配してくれ、怒ってくれたのだ。張飛のような心の優しい者は、なかなかおらぬ」
「え……あー……。俺、そんなんじゃねーよぉ。あはは……」
褒められたので、張飛は顔を少し赤くして、照れている。

関羽は、そんな張飛を清々しい顔で見て、言った。
「張飛……強い男とは、腕力や体力が強いことだけを言うのではない」
「えっ?」
「男は、心を広く持ち、心身ともに強くなければならぬ。例えば女子供など。そして弱い者の心身全てを守り、優しく包み込むような男。そして己に負けない男こそ、真の強い男なのだ」
「そっかぁ……」
「さあ。許保殿も、心配しておるだろう。戻るぞ」
「うん!」


関羽と張飛は、許保の商店に戻った。
「許保殿。先程は大変、失礼致した」
「いえいえ! ウチは大丈夫ですが。関羽さまこそ、大丈夫ですか?」
「わしは大丈夫でござる。ご心配頂き、深く感謝致しますぞ」
「こちらこそ!」

許保は、関羽を見て、言葉を続けた。
「関羽さま。董海は先程、仕事を辞めると言ってきました。もうここにはおりません」
「そうですか……」
「関羽さまと董海の間に、何があったかは分かりませんし、聞く意味もありません。ですがわたしはこれまで通り、関羽さまとお付き合いしていきたいです」
「許保殿。お心遣い、嬉しく思いますぞ」
関羽は、許保に頭を下げた。


その後、関羽と張飛は帰路についていた。
「相変わらず、さっぱりしてていいやつだな。許保のおっちゃん!」
「これ、張飛……」
明るく笑う張飛に、関羽は苦笑していた。

いつの間にか、空は荘厳な夕焼けである。
「張飛。人間とは何と、小さなものかのう……」
関羽は、どこまでも広がる夕焼けを見ていた。

広大な中国大陸の夕焼けは、日本のそれとは比較にならぬほど荘厳で、色濃い太陽が、空をオレンジ色の光で満たしていた。
それに沿って、海のような雲の波が、さまざまな色に染まっていく。
そんな中、宵の明星が明るく輝き、紫色になっていく東の空には、もう少しばかり星が輝き始めていた。

「この空の下では、人間など無力に等しい。だがそれぞれの思いは、みなこの空のように、いつも表情を変えるものだ。そうは思わぬか」
「うん、そーだな」
「我々のしておることを、天はいつも見守ってくださるのだ……」
「兄貴はホント、心広いんだな。俺だったらぜってー許せねーもん」
「ははは。張飛はそのような感じであろうな」
「俺、ホント、兄貴の弟になれて良かった!」
「わしも、お前のような弟を持ち、嬉しく思うておる。これからも、またいろいろあるであろうが……宜しく頼むぞ、張飛……」
関羽と張飛は、どこまでも広がる、橙色の光に溢れる夕焼けを見ているのだった……。

   

拍手ボタンです!\(^0^)/
お気軽にポチッと、どうぞ!(^^)v

inserted by FC2 system