原作 羅貫中『三国志演義』 作・絵 彩ますみ

     10】 関羽と張遼

張遼が川で溺れた……。
そんな喜ばしくないトラブルであったが、関羽と張遼の絆は、より深まったのだった。
張遼が川で溺れた事件から、一週間後のこと……。

「え〜っ! 今日は外で遊ばないの〜?」
「いかんぞ。今日は、張遼に書を教えたいのだ。遊ぶのはそれからだぞ」
「えー、関羽。俺、そんなもん別にいーよぉ……」
すっかり元気になった張遼が、頬を膨らませた。
「いや。良くないぞ。人として、漢字を学ぶことは必要なのだからな」
「だって俺、まだ三歳だよ〜?」
「早いうちから、学ぶことが大切なのだ」
「う〜ん……」



張遼は、少々不満そうに、関羽に手渡された筆を手にした。
どうやら張遼は、あまり書道が好きではないようだった。
この時の関羽は、まだ十一歳でありながら、大変利発で、張遼の家庭教師代わりでもあったのだ。
さすがに、この頃の関羽は、現在のように、長い口髭や顎鬚、頬髯はまだなかったが、言葉遣いや性格、そして雰囲気が、既に現在のように、形成されていたのである……。

「違うぞ、張遼。その字は、この画から書くのだ……」
「え〜っ?」
「この字はだな。このように、ここまで筆を運び、ここで止め、そしてここではねるのだ」
「う〜ん……」



張遼は、なんだか、言いたいことがあるような顔をしていた。
そんな張遼の難しそうな顔を、関羽は見逃さず、張遼に訊ねた。
「どうした、張遼?」
「関羽。漢字の書き順って、そんなに大事かなあ?」
「書き順か?」
「だってさ。最後にちゃんとした字を書けば、それでいーんじゃないの? 書き順違っても、見た目は変わらないじゃん!」
「そうだな。確かに、張遼の言う通りだ。最後がきちんとした字ならば、表面上問題はない。だが、正しい書き順を知り、学ぶ必要はある」
「う〜ん。俺には分かんないや」
張遼は、首をかしげて、頭を掻いた。

「だが、字は随分と上達したな」
「ホント? やったぁ!」
「ははは……。単純だな、張遼も」
先程まで、あれほど難しい顔をしていた張遼の顔が、パッと明るくなったのがおかしくて、関羽は苦笑していた。

そして関羽は、微笑んで張遼を見て言った。
「……人の道も、そうかも知れぬな。漢字の書き順と同様に、途中で道を逸れたり、遠回りしたとしても、最後はきちんと出来れば、言うことがないのやも知れぬ……」
「ん〜?」
張遼は、まだよく分からないというように、首をかしげた。
「張遼。わしは教えておるつもりが、逆に張遼から教わることの方が多いのだぞ」
「えー? そーなの?」
「ああ……」
「俺、何か関羽に教えたっけ?」
「まだ張遼には分からぬか? 張遼とおるだけでも、わしもいろいろ学ぶことがあるのだ。張遼がなにも教えておらんでもな……」

それから、一時間程が過ぎた。
関羽は、静かに筆を置いた。
「では、書はここまでだ」
「やったぁ〜! よーやく外で遊べるっ!」
 張遼は、筆を持ったまま、ガッツポーズをした。

ところが……。
ゴロゴロゴロゴロ……。
遠雷が聞こえてきてしまった。
「あれっ!? 空が真っ暗。お天気が……」
こうなると、この辺り一帯、雷雨に見舞われるのも、時間の問題である。

張遼は、玄関先で空を眺め、不満そうに顔をしかめた。
「うそ〜、マジで!?」
「仕方がないであろう、張遼。神がお怒りなのだ。神がお怒りを鎮められるまで、待つしかあるまい……」
「うわぁ、急いで帰るね! じゃー、バイバイ関羽!」
「ならぬ、張遼っ!」
「ええっ!?」
関羽が大声で叫んだので、張遼はビックリして、その場でずるっとこけてしまった。

「我が家から、張遼の家まで、どれほど離れておると思うておるか? 張遼の足では、あっという間に、途中、雷雨に見舞われてしまうであろう」
「でもぉ!」
「雷を甘く見るでないぞ。あれに撃たれた者は、殆どの者が命を落とすと聞いておる」
「だって、それじゃー、ウチに帰れないよぉ!」
「では、我が家に泊まっていけば良いではないか」
「えっ、いーの!?」
「ああ。わしと張遼は、もう、兄弟同然だからな」
「やったぁ!」

その時だった。
真っ暗になった空が、急に、眩くピカッと光った。
張遼は、その稲妻にビクッとした。
「!!」
「むう……、とうとうここにも、雷がやって来たか……」
関羽が、空を注意深く見ていた。
「……!」
張遼は、反射的にすくんで、両耳を押さえた。
ドォーン……!!
「わあっ!」
かなりの、激しい落雷の音が、光速の少し後に、音速としてやってきた。
その間隔の短さからいって、おそらく落雷した場所は近い。

張遼は、思わず叫び、目をギュッと閉じて、ますます両耳を強く押さえていた。
関羽は、そんな張遼を見て、クスッと笑い、優しく話しかけた。
「怖いか、張遼?」
「こ……怖くないもん!」
「そうか?」
張遼は、思わず強がっていた。
「俺、雷なんてへーきだもんっ!」

しかし、立て続けに、稲妻と落雷が続いた。
ドォーン!!
「うわあっ!!」
張遼は、思わず、関羽にしがみ付いた。
「か……関羽っ……!」
張遼は、やはり雷が怖いのだろう。
身体が震えていた。
「大丈夫だ、張遼……」
関羽は、優しく微笑み、腕の中の張遼に話しかけた。
「雷の光はな。なぜかは分からぬが、細長く立っておるものや、高いところに落ちると聞くぞ。だから、姿勢を低くすることが大事なのだ。もちろん、人も細長いものに入るから、高くなればなるほど、危険だ。ここは平屋だから、おそらく落雷があるとすれば、もっと高い場所であろう。しかし木のそばは危険だという。いずれにせよ、この家にいれば、おそらく問題はない……」
「ほ……ホントに大丈夫!?」
「ははは……。大丈夫だ。だがもし何かがあれば、わしが張遼を守るからな。安心せよ」
「かんう〜……」
張遼は、既に泣いていた。
そんな張遼が、関羽は非常に可愛らしく思えた。
「ははは……。よしよし」
関羽は、震えている小さな張遼を、優しく抱き締めて、幾度も背中と頭を撫でてあげていた。

その日の夕方。
先程ではないが、まだ、雷が続いていた。
「関悦おじさん。お世話になります」
「おお、張遼! 構わないぞ。この雷雨で帰るのは危険だからな」
張遼が、関悦に頭を下げていた。

関悦は、ニコニコ笑って、張遼の頭を撫でていた。
「張遼も、あれほど腕白だったのに、礼儀正しくなったな。さては、長生の教えが良いのかな?」
「はい、一応。おじさ〜ん、聞いてくださいよ。関羽ってばホントにうるさくって……」
「これ、張遼。うるさいとは何なのだ。わしは人として、当然のことを教えておるまでだ」
「本当に、長生は真面目だな〜……。だがもっと息抜きすることも大事だと思うぞ」
「分かっております、父上」
「ははは……ならば良いがな」
関悦は、関羽の頭も、優しく撫でていた。

「関羽んちに泊まるの、久しぶりだな〜」
張遼がわくわくしていたが、少し考え、下を向いた。
「でも、おとーさんとおかーさん、心配してるかも……」
「大丈夫だ、張遼。もちろんご両親には、わしの家に行くとは言ってあるであろう? それにこの雷雨では、ご両親もおそらく、分かっておられるだろう」
後漢末期には、当然、現代のような携帯電話やメールなどはなかったが、隣近所との信頼関係が豊かであった時代。
その分、人と人との心の繋がりは、現在よりも強かったと言える。

その夜、張遼は、ニコニコ笑って、関羽と同じ布団に潜った。
「関羽といると、安心するなぁ。落ち着くよ」
「そうか。張遼にそう言って貰えるとは、わしもとても嬉しいぞ」
「うん!」
張遼は、関羽のすぐそばで、ニコニコ笑っている。
「そーだ! ねー、関羽。明日は晴れるかなぁ!?」
「そうだな……。ほれ、空を見てみろ。星が出ておる。これなら明日は晴れるだろう」
「やったぁ! 俺、関羽に、水切り教わりたいんだよね!」
「ほう、水切りか?」
「そーだよ。なんか、上手く出来なくってさ!」
「わかった。では、明日は川原であるな? 楽しみにしておれ。さあ、今日は早く寝るがよいぞ」
「うんっ! 関羽、おやすみなさい!」
張遼は、ニコニコ笑って布団に潜っていた。

だが、十分程が過ぎ、関羽は、張遼がまだもぞもぞしていることに気が付いた。
「張遼?」
「なに? 関羽」
関羽は、目を軽く見開いて、張遼を見た。
「なんだ、張遼。まだ起きておったのか?」
「ごめん」
「謝ることなどないが……どうした?」
「……なんか、眠れないなぁ〜」
「そうか、眠れぬのか。では、書でも読んでやろう」
「ありがとー。でも、関羽の読む本って、難しいんじゃなーい?」
「ははは……確かに、張遼の歳では、まだ、難しいかも知れぬな」
関羽は、張遼の顔を覗き込み、笑った。
「さては、明日遊べる嬉しさのあまり、頭が興奮しておるな?」
「うん。そーかも……」
「では、分かった。よく聞いておれ」
「うん……」
関羽が、ゆっくりと、低い声で、書を音読し始めた。

関羽が、そのように、書を音読していたが……。
「む、張遼……?」
「ぐー……」
張遼は、関羽のやや低い声を聞いていたら、気持ちが良かったのか、ついつい、眠ってしまっていた。
「はは。既に寝ておるわ……」
関羽は、おかしそうに苦笑して、そしてとても優しい瞳で、寝ている張遼の頭を優しく撫でてあげていた。
「張遼。今日は、少々頭を痛くさせてしまい、済まぬな。ゆっくり休むがよい……」
そして関羽は、自分も眠くなり、張遼を抱きかかえたまま、眠ってしまったのだった……。

   

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