原作 羅貫中『三国志演義』 作・絵 彩ますみ

     】 関羽誕生、幼馴染・張遼文遠

関羽はなぜ、人知れず泣いていたのであろうか?
それには、もちろん、深い理由があった……。
 
ここで、関羽の過去を覗いてみようと思う。
関羽は、実は楼桑村の出身ではなく、元々は違う土地の出身であった。
それが、河東郡解県(解良県とも言われる)というところであり、広い中国のかなり西方であった。

関羽は、十代の頃は、塩の密売に関わっており、その商売で生計を立てていた。
関羽の故郷の河東郡解県は、巨大な塩湖があったためである。
そして、関羽の元の字は、実は雲長ではなく、長生(ちょうせい)であった……。

さかのぼること、二十三年前。
一六一年の初夏のこと……。

河東郡解県の、とある邸宅……。
「生まれたのか?」
「ええ……」
「おお、何とまあ、大きくて元気そうな男の子だ!」
寝台に寝ている女性の傍らでは、長身の男性が、生まれたばかりの、大きな男の赤ちゃんを抱きかかえて微笑む。

彼の名は関悦(かんえつ)。
字は、隆信(りゅうしん)。
そう、彼こそ、関羽の、実の父親であった。

そして、関悦の腕の中、この元気そうに笑う大きな男の赤ちゃん。
この赤ちゃんこそ、後の関羽であった……。

「よく頑張って、この子を産んでくれたな。ありがとう……」
関悦は、瞳に少し涙を浮かべていた。
「ええ……。あなたにそう言って頂くと、今までの苦しみが、嘘のようですわ」
「そうであろうな。お前が苦しそうにしていて、見ていられなかった。何か助けられないものかと、おろおろするしかない自分が歯がゆかった……」
「あなた……」
「産みの苦しみは、さすがに、男の私には分からない。どれほど苦しいのか、想像も付かない。それなのに、よくぞ頑張ってくれた……」
関悦はとても優しい笑顔で、関羽の母親になった女性の手を、温かく握り締めて、そして優しく、その頬に触れていた。

「ところで、この子の名前は決めたのか?」
「まだなんですよ……」
「おお、ではこういう名はどうだ?」

関悦は、にこにこして、瞳を輝かせた。
「……鳥が空高く羽ばたき、飛躍するという意味で、『羽』。字は、長生きするという意味で、『長生』。良い名であろう?」
「では、『関羽長生(かんうちょうせい)』ですか?」
「響きも、良いではないか!」
関悦は、上機嫌に笑い、優しい瞳であった。
「関羽長生、か……。この子は、必ず、強くたくましく、頭の良い子になるだろう」
関悦は、そう言って、関羽と名付けられた赤ちゃんを高々と抱き上げた……。

こんな風に、関羽は、それなりに裕福な豪商であった、関悦の長男として生まれ、何不自由なく、平穏に暮らしていた。
それから数年後。
関羽は、三歳になっていた。
「長生はどうした?」
「はい、今は、書を読んでいますよ」
「おお、『春秋』だな?」
「ええ、最近では、『周経』も読んでいるようですよ」

関羽は小さい頃から、親の躾が良く、礼儀正しく、『春秋左氏伝』などの本を読んだり、書をしたためたりするのが好きで、更に武術にも長けた。
「長生は、本当に頭の良い子だ。あれほど小さいのに、難しい書をすらすらと暗記してしまう。しかも、子供にしては身体も大きく、力も強い。武術も出来る。これは、将来が楽しみな子だ……」

その後、関羽が三歳の時、関羽の弟が続けて生まれた。
関隆(かんりゅう)と関直(かんちょく)という名であり、とても可愛らしい、年子の二人の弟であった。
関隆は、字を陽範(ようはん)、関直は、字を明定(めいてい)といった。
家族が増えて、関悦と関羽たちの喜びは、何にも例えようがなかった。

しかし……。
関隆と関直は、流行病にかかり、関悦や関羽の必死の看病も空しく、すぐにこの世を去ってしまった。
当時の関羽は、六歳。
亡くなった時の関隆は、まだたったの三歳、関直に至っては、僅か二歳であった。

「嘘だ! 陽範! 明定っ!! 目を開けてくれっ!!」
関悦は、関隆と関直の身体を揺さぶった。
しかし、時既に遅く、二人とも息を引き取っていた。

「おおおお……。なんということだ……!!」
関隆と関直を失った、関羽の悲しみは、どれほどのものであっただろうか?
当事者でなければ、分からないであろう。
関悦は、震えて、泣き崩れていた。

そんな関悦の傍らでは、当然、関羽の母親も、泣き崩れていた。
関羽は、そんな関悦と母親の様子を、心配そうに見守る。
「父上……」
「……長生。お前が何事もなく、平穏無事でいてくれただけでも、神に感謝しなければならないな……」
関悦は、小さな関羽をギュッと抱き締めて、涙をこぼしていた。
そんな関悦と関羽の様子を見ていて、関羽の母親は震えを抑えて言った。
「……陽範と明定を、丁寧に供養致しましょう……。それが、私たちに出来る、精一杯のことです……」
「母上……」

しばらくして、関羽は、関悦を見上げ、毅然とした態度で言った。
「父上。それがしは、この先もっと、医学や看護を学びます。陽範と明定のように、病気で亡くなる者たちを救いたいのです」
幼くして、二人の弟、関隆と関直をいっぺんに失った、痛ましい出来事。
しかしこれが、関羽が看護知識や薬の知識に詳しくなった、大きなきっかけであった。


それから、関隆と関直を亡くした苦しみに負けず、関羽はすくすくと、たくましく成長し、生まれてから八年が過ぎ、関羽は八歳になった。

関羽の母親は、常に、このようなことを、子供だった関羽に言い聞かせた。
「いいですか、長生」
「はい、母上……」
「男は、強く、たくましくなければなりません。そして、人前で泣いてはなりませんよ。弱い人を救い、助け、そして守るのです。自分に厳しく、他人には優しくありなさい。義を守り、約束は必ず守り通すのです。正しいことをして、間違っているものや、悪を正すのですよ。いいですね……」
「はい、承知致しました、母上……」
関羽は、母親に丁寧に頭を下げた。

関羽の今のような性格は、両親、特にこの母親の教育によるものが大きかったと言える。
その頃から、関羽は、近所の子供たちのお兄さん的な存在となり、大変面倒見が良く、母親の言った通りの、優しく強い子になっていた。
そして、その近所の子供たちの一人が、実は、あの張遼(ちょうりょう)だったのである……。

それから、少し経った、ある日のこと。
「あなた。お隣の張さんに、男の赤ちゃんがお生まれになったそうですよ」
関羽の母親が、大変嬉しそうに、関悦にそう言うと、関悦もとても嬉しそうだ。
「おお……! それはめでたいことだ。早速、張文(ちょうぶん)殿のご自宅に、足を運ぶとしよう」
 
関羽たちの住んでいた邸宅の隣に、張遼の父親である張文が住んでいて、つまりはお隣さんだったのだが、ここは広い中国大陸。
隣近所とはいえ、結構歩く必要があった。

二十分ほどして、関悦と関羽の母、そして関羽は、張家に到着した。
「これは、関悦殿! ようこそおいでくださいました」
張文が、関悦たちを手厚く迎えた。
子供が大好きな関悦は、早速、赤ちゃんの顔を覗き込んだ。
とても優しい性格の関悦は、張遼の誕生を、まるで関羽や関隆、関直が生まれた時と同じぐらい喜んでいるのだった……。

「おお、これは。なんとも可愛らしい男の子だ!」
関悦は、満面の笑顔で、関羽を見下ろした。
「長生も八年前は、こうだったのだぞ……。ところで、張文殿。この子の名前は、もう決められたのですかな?」
「ええ。『遼(りょう)』という名にしようかと思いまして。字の方は、いろいろ考えたのですが、わたしの名である『文』を取って、『文遠(ぶんえん)』にしようかと」
「では、『張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)』という名か。良いではないか!」

関悦は、にこにこ笑って、関羽を見下ろした。
「きっと張遼は、陽範と明定の生まれ変わりだ。長生。張遼のよいお友達になり、面倒を見てあげるのだぞ?」
「はい、父上」
関羽は、関悦に頭を下げた。
張遼は、関羽よりも八歳年下だったのである。

関羽は、生まれて間もない張遼を抱いた。
「なんと、可愛らしい子だ……。張遼。わしは関羽。字は長生だ。今からわしは、張遼の兄になるからな。宜しく頼むぞ」
そしてこれが、関羽と張遼の運命の出会いであった……。

それからというもの、関羽は毎日、赤ちゃんである張遼の面倒を見てあげて、遊んであげていた。
実の弟たちの、関隆と関直を早々と失い、失意の底にいた関羽であったが、まるで新しい弟が出来たかのようで、関羽は子供心にとても嬉しく思い、小さな張遼を大切にした。
張遼は、ありがたいことに、とても丈夫な男の子であり、張遼の両親はもちろん、関羽たちが最も心配していたような、病にかかることもなく、毎日たくましく成長した。


それから、三年経ったある日。
関羽は十一歳、張遼も成長し、三歳になった。
「ねえ、関羽。今日はなにして遊ぶ〜?」
「張遼……。年上の相手には、呼び捨てで呼んではならぬと言うたではないか」



「だって。みんな、『関羽』って言うんだもん……」
張遼は、少々口を尖らせて、関羽を見上げた。

そんな張遼の、くるくると動く、大きな可愛らしい瞳を見た関羽は、もう注意する気になれなかった。
少しため息をついて、関羽は張遼を見下ろす。
「仕方あるまい。張遼は一生、わしを呼び捨てで呼ぶがいい」
「ホント? やった〜!」



張遼は、とても嬉しそうであった。
「嬉しそうだな、張遼」
「うん! だってさ。今、関羽、一生って言ってくれただろ? 一生って、確か、死ぬまでだよな? 関羽と死ぬまで友だちなんだろ? 嬉しいよー!」
「そうか……。わしも嬉しいぞ、張遼。では、今日はどこへ行きたいか?」
「うん、川で遊ぼ!」


「ひゃー! 気持ちいーっ!」
張遼が、川原ではしゃぎまわっている。
そんな時でも、関羽は、張遼を注意深く見て、声を大きくした。
「これ、張遼! 走るのは構わぬが、くれぐれも足元には気を付けよ、転ぶでないぞ!」
「分かってるよ! 関羽はうるさいんだから〜……」

ところが張遼は、はたと止まって、目を丸くして、首をかしげた。
「あれ? そーいえば……」
子供は、誰でも大抵そうだが、特に張遼は、何にでも興味や疑問を持つ子供であった。
というわけで、張遼は、関羽と遊ぶ時は大体、質問から始まる。
しかし、どのような質問をされても、関羽は少しも嫌がることなく、張遼の疑問に答えてあげていた。

「ねー、関羽。何で川って、長ーく流れてんの?」
「良い質問だな、張遼。水はな。天から降る雨が集まって出来る。その雨が降り注ぎ、土地の高さが高いところから、低いところへと流れるのだ。それが川となる」
「へえー。そんなら、黄河は、たくさんの雨が集まってんだな。あれ? じゃー、池や沼は、どーして水が溜まってんの? そこだけ凹んでんの?」
「その通り。池は、その底が窪んでおるからな。その底に雨水が溜まると、それは池や沼、それが大きくなると湖となる」
「川は低いとこに流れてんだ? じゃー、川ってそのうちどこへ流れるの?」
「わしも父上から聞いたり、書で読んだりしておるだけだから、見たことはないが、『海』というところに出るらしい。それは、どのような湖よりも大きい、水の溜まる場所と聞くぞ」
「へえ〜。世の中って、不思議なことがいっぱいだなぁ〜」
「そう。その通り、この世は不思議なことばかりなのだ。それを気にするかしないかで、見方が変わると思うぞ」
「俺、雨って嫌いだったけど、雨って、大事なんだね!」
「そうだ。雨は、全ての命の源。神が下さる恵みなのだ」

「あ! ちょうちょだ!」
張遼は、川岸に咲く野草に止まっている、蝶に目を奪われていた。
「関羽! 見てよ。ちょうちょ!」
生き物が大好きな張遼は、蝶を指差して、非常に興奮して嬉しそうである。
関羽は、優しい顔で、張遼を覗き込んだ。



「関羽。これ、なんて名前のちょうちょ?」
「これは揚羽蝶であろうな。とても大きく、しっかりとした蝶なのだ」
「へえ〜……」

張遼が、その揚羽蝶に手を伸ばそうとした、その時、揚羽蝶は敏感に、張遼に気が付いたようで、張遼から逃れるように、川原の方へ羽ばたいた。
「あ〜! こらあ! 待てよ、逃げんなよ。殺したりしないよ!」
張遼は、慌てて、揚羽蝶を追いかけ、川原の岩をぴょんぴょん走った。

それを見た関羽は、顔色を変えて、張遼に叫んだ。
「張遼、待たれ! 危ない!」
「あっ!!」
ドボーン!!

関羽がそう叫んだのと、張遼が岩に足を滑らせたのは同時であった。
「張遼っ!!」
「――!!」
張遼は、川に落ちてしまった。

張遼が、川の中で、非常に苦しそうに、必死にもがいている。
「ゲホッ……!! か……関羽ーっ!! 助けてーっ!!」
「待っておれ、張遼っ!!」
関羽は、急いで川に飛び込んで、張遼の方へ泳いだ。

川は、もう少しで急流である。
しかも、その先には、滝があった。
そんなところへ流されては、命はないであろう。
関羽は、とにかく懸命に、張遼の方へ泳いだ……。

それから、二時間ほど経ったであろうか?
張遼の視界が、ゆっくりと開かれた……。
「……うん……?」
「おお……、張遼!」
「……か……関羽……?」
張遼の視界に、関羽の心配そうな顔が飛び込んできた。

「目覚めたか、張遼! 良かった。心配したのだぞ!!」
「俺……、川に落ちて……?」
「良いぞ、張遼。もう何も考えるな」
関羽の傍らには、張遼の両親がいた。
「文遠! 文遠っ!!」
「良かった、無事だったのね……!!」
「おとーさん……おかーさん……」
張文と、張遼の母は、意識を取り戻した張遼を抱き締めた。

関羽は、張文と張遼の母親に、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、全てはわしの責任です」
「とんでもない、関羽くん! 文遠の不注意ですから。関羽くんは何も悪くないのよ」
「関羽が……助けてくれたの?」
「ああ……」
関羽は、こくりとうなずいた。

「あ……ありがとう……関羽……。俺……俺は……」
張遼は、唇が震え、泣きそうであった。
「張遼……」
「う……うわあああ〜ん……!!」
張遼は、とうとう堪え切れず、関羽に抱き付いて大泣きした。
「よしよし……。張遼。さぞかし、怖かったであろうな。しかしもう大丈夫だ。わしがそばにおるからな……」
関羽は、そう言って、張遼の小さな頭を優しく撫でた。

     

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